不思議を発見する山歩き 知的登山のすすめ <18>

尾瀬ヶ原 その2

尾瀬のおいたち
高層湿原と対馬海流
小泉武栄
前回に引き続いて尾瀬の話をしたい。尾瀬ヶ原は、まわりをいくつもの山々に囲まれた山間の別天地だが、この小盆地と湿原はどのようにしてできたのだろうか。

尾瀬ヶ原の回りの山々が隆起をはじめて山らしくなってくるのは、およそ200万年ほど前からと推定されている。しかし、山をつくる岩石そのものの年代は、もっとずっと古くにまでさかのぼる。この辺りで最も古い地質は、景鶴火山の基盤となっている粘板岩や砂岩の地層で、2億2000万年ほど前に海底で堆積したものである。

次は至仏山をつくるかんらん岩で、1億7000万年前に、地下深くのマントル物質が絞り出され、上昇してきたものである。その大部分が水の作用を受けて蛇紋岩に変化している。また約1億年前には、尾瀬を含む広い山域の地下に、マグマが上昇してきて花崗岩となり、堆積岩やかんらん岩の岩体を押し上げた。この花崗岩は三条の滝の下流側や、鳩待峠へ登る道路沿いに露出している。

200万年ほど前になると、山々が隆起し始め、火山活動もはじまった。最初の火山活動は景鶴山で起こり、溶岩を流して楯状火山をつくった。その後、桧高山やススケ峰が噴火し、つづいてアヤメ平、皿伏山、荷鞍山が噴火した。いずれも楯状火山で、そのなごりは、アヤメ平などのなだらかな山頂部にみることができる。景鶴山やこれらの火山は、尾瀬ヶ原一帯にも大量の溶岩や火山噴出物を堆積させた。しかしその後、只見川の侵食によって堆積物のほとんどが削りとられ、尾瀬ヶ原と尾瀬沼を含む盆地の原形ができた。

5万年ほど前になると、尾瀬ヶ原の東側で燧ヶ岳が火山活動をはじめ、溶岩や火山灰を大量に噴きだして、大きな成層火山に成長した。燧ヶ岳から西側へ流れた溶岩は、只見川をせきとめ、「古尾瀬ヶ原湖」をつくった。この湖は、もっとも深いときには水深200メートルにも達したと推定されている。

一方、5000年前に南へ流れた溶岩は沼尻川を上流でせきとめ、尾瀬沼をつくりだした。

三条の滝と平滑の滝

このふたつの滝ができたのも、燧ヶ岳の活動にかかわっている。平滑の滝は、燧ヶ岳から流れだして只見川をせきとめた安山岩の溶岩の上に生じた滝である。もともとのなだらかな河床を溶岩が埋め、そこを川が侵食したために、あのなだらかな滝が生じた。

これに対し、三条の滝は安山岩の溶岩ではなく、只見川が、基盤の花崗岩を削りこんでできたものである。花崗岩は長い年月の間に風化が進んで柔らかくなっている。そのために侵食を受けやすく、落差の大きい豪壮な滝が生じた。滝の落ち口は安山岩の溶岩が固めているが、ときどき壊れて滝は少しずつ後退する。その後退の跡が、三条の滝の下流側にある峡谷である。

尾瀬ヶ原のでき方

ところで尾瀬ヶ原の高層湿原は、どのようにしてできたのだろうか。かつては古尾瀬ヶ原湖に泥炭が堆積して、高層湿原ができたとするのが一般的な考え方であった。しかし、近年、阪口豊氏はこの説を否定し、古尾瀬ヶ原湖は泥炭の堆積がはじまる前に、すでに消滅していたとする学説をだした。それによれば、古尾瀬ヶ原湖は3万6000年前に誕生したものの、1万2000年前には水が抜けて消滅していた。泥炭の堆積の始まりは8000年ほど前のことだから、古尾瀬ヶ原湖は泥炭の堆積には関係がない。当時、尾瀬ヶ原の盆地にはいくつもの川が蛇行して流れ、そこに土砂を厚くためていたという。

では、なぜその頃から泥炭が堆積するようになったのだろうか。実はこれには氷期以降の環境の変遷がかかわっている。2万年ほど前を寒冷のピークとして、気候は次第に温暖化し、北欧や北米の大陸氷河も解けて、8000年前には、海面の位置も現在のレベルにまで回復した。それによって日本海には対馬海流がどんどん流れこむようになり、それにともなって、日本海側の山地では積雪が増加した。その結果、なだらかで水はけの悪いところには湿原ができはじめた。同時に泥炭の堆積も始まった。同じことは、周囲のなだらかな山地でもおこり、アヤメ平を始めとする山頂の湿原ができ始めた。尾瀬ヶ原では泥炭の厚さは最大で5メートルに達している。

こいずみ・たけえい
1948年長野県生まれ。東京学芸大学教授。専攻は自然地理学、地生態学、第四紀学。著書に『日本の山はなぜ美しい』(古今書院)『山の自然学入門』(編著、古今書院)『山の自然学』(岩波新書)『登山と自然の科学Q&A』(共著、大月書店)『登山の誕生』(中公新書)『山の自然教室』(岩波ジュニア新書)など。「山の自然学クラブ」で主任講師を務める。


[写真キャプション]
上:燧ケ岳。溶岩で盛り上がっている様子がわかる。
下:至仏山。なだらかに見えるが、実はたいへんな岩山である。

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