不思議を発見する山歩き 知的登山のすすめ <2>

富士山の天地境を歩く
特異な森林限界のせめぎ合い
小泉武栄
前回に引き続いて富士山の自然を観察してみよう。富士山は遠望したときはまさしく均整のとれた秀麗な火山だが、そばによって見ると予想以上に多彩で原生的な自然が展開する。美人を近くで見ると、あばたやえくぼが見えるようなものかもしれない。先月号で紹介した宝永の爆裂火口はとくに目立つものだが、ほかにも山麓には、湧玉の池や柿田川湧泉群、忍野八海などに代表される豊かな湧水と富士五湖があるし、丸尾と呼ばれる溶岩流や青木ヶ原の樹海、寄生火山、風穴と氷穴、溶岩樹型(溶岩中に樹木の形が空洞になって残っている)などもある。大沢崩れの存在も忘れることはできない。

また高山植物こそ少ないが、亜高山帯以下の植生帯はよく発達し、そこには、さまざまな鳥や動物が生息している。もっとも山体を深く刻む谷はないから、川に棲む魚や水性昆虫の類はいないが・・・・・・。ともあれ今回は五合目付近の天地境を歩いてみよう。

富士山では北側のスバルラインや南側の富士スカイラインの開通で、車を降りてすぐ森林限界ののびやかな景観に接することができるようになった。森林限界付近には富士山の中腹をぐるりと一周する「お中道」という道がある。これはかつて行者が修行のために歩いた道である。近年、大沢崩れの崩壊がひどくなって、一周はできなくなったが、天と地の境と呼ばれるほど見晴らしもよく、快適な散策ができるから、一部だけでもぜひ歩いてみていただきたい。スバルラインの終点(五合目)から西の御庭までの2時間ほどのコースと、表富士の五合目から宝永火口までの1時間半ほどのコースがお勧めである。途中の景観は変化に富み、飽きることがない。

ここでもいくつか不思議なことがある。森林限界をつくる樹種がカラマツであること、他の高山に比べて森林限界が低いこと、それに森林限界の上にハイマツがないことなどである。富士山にもっとも近い高山地域は南アルプスだが、そこではシラビソやオオシラビソからなる亜高山帯の針葉樹林が、海抜2800メートルくらいまで上昇している。つまり気候条件から考えると、富士山でもシラビソやオオシラビソがこの程度の標高まで生育していてもよいはずである。しかし、シラビソやオオシラビソははるかに低いところにとどまり、その上はカラマツのゾーンになっている。

このカラマツのゾーンは、わが国では富士山や浅間山くらいにしか見られない珍しいものだが、やはり火山で山体の形成が新しく、森林自体がまだ未熟であるということに原因が求められよう。不安定な火山砂礫地(スコリア原)が広がる富士山の斜面では、乾燥と寒さに強いカラマツが、シラビソやオオシラビソの代わりに生育することになったのである。ただし時間の経過とともにシラビソなどの上限は現在より上昇するから、カラマツのゾーンは次第に狭まるに違いない。

ここのカラマツは強風でおもしろい形に変形したり、ハイマツのように這ったりしている。この形をみていくだけでも十分散策を楽しむことができるほどだが、よく見ると、同じ強風による樹木の変形でも、北アルプスや東北の高山などでみられるオオシラビソなどの変形(いわゆる偏形樹)とは、明らかに様子が違っている。どこが違っているのか、ご自分で考えてみていただきたい。

なお、富士山にハイマツがないのは、現在の富士山が、実質的に5000年前以降に高くなった新しい火山であるためで、高山植物が少ないのもおなじ理由である。

ところでお中道沿いでは、カラマツやオンタデ、コタヌキランなどが点在するスコリア原が優勢だが、ところどころダケカンバやナナカマドからなる林が現れる。これも不思議なことだが、なぜこうなったのだろうか。

天地境では、植生分布は実は足元の地質と密接に関連している。ダケカンバの林のあるのは溶岩が地表に現れているところに限られている。富士山は平安時代の末までは主として山頂から噴火しており、溶岩を流すような大きな噴火と、スコリアをまき散らすような小噴火を繰り返していた。富士山の溶岩は粘性が低いために流れやすい。山頂火口の縁からあふれた溶岩は、山頂から細長く放射状にのびることになったが、ダケカンバ林のあるところはそうした細長い帯のひとつにあたっているわけである。

山頂からの噴火がおさまってすでに1000年近い年月が経過した。その間に、表土が安定している溶岩の上では、スコリア原より早く植生遷移がすすみ、ミネヤナギなどの群落を経て、ダケカンバの林ができた。この林の林床にはハクサンシャクナゲやコケモモがびっしりと生えていて、ここが本来ならば亜高山帯の針葉樹林になるべき標高であることを示している(したがってこのまま時が経過すれば、ここもいずれはシラビソやオオシラビソの林になるはずである)。

一方、スコリア原は見通しのよい火山性の荒原になっていて、変形したカラマツとオンタデ、イタドリ、フジアザミなどの草本の株が散在している。これは表土がザクザクしていて不安定なために、遷移の進行が遅れているのだと考えることができる。何百年か前にさかのぼれば、宝永火口の内部のように、カラマツはみられなかったはずである。ザクザクしたスコリア原に最初にオンタデやイタドリが生育して表土の動きを抑え、そこにカラマツが定着してようやく生育することができるようになったのが、現在の姿といえよう。

こいずみ・たけえい
1948年長野県生まれ。東京学芸大学教授。専攻は自然地理学、地生態学、第四紀学。『日本の山はなぜ美しい』(古今書院)『山の自然学入門』(編著、古今書院)『山の自然学』(岩波新書)『登山と自然の科学Q&A』(共著、大月書店、日本勤労者山岳連盟・編)『登山の誕生』(中公新書)など。


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