昨晩から小雪は降りやまず朝から一日雪。大阪K隊のアタック心配する。
アタック断念してC4から引き返しているとの無線あり。
本日はマナスル登頂の成功を記念して祝宴を催す。今回の一番印象に残ったことについて話してもらう。
《隊長》
7年半前と較べてC3~C4間のルート(ブルーアイス)が数倍も難しかった。7年半前の秋季は雪に覆われていた、今回は露出面が多かったために難しさが増した。
しかし、8千m峰C4~頂上はすべり台のようだった。柔らかくて踏み抜く雪質と硬い氷板の状態ではあったが、比較的登りやすかったのではなかろうか。
ブルーアイスでは恐らくフィックスロープが雪に埋もれてしまい、張られていない箇所があったからだろう。2次隊にはロープ固定するように無線を通じて指示したが、そのことが伝わっていなかったのでロープがなかった。だから2次隊も見守るBCでも大変怖い思いをした。ここが今回の核心ではなかったのか。
この場所で5月19日下山中のチェコ人が滑落して亡くなった。今季2人目だ。C3方向に流れていき、まもなく雪に体は覆われていき、最終的に遺体は回収されなかったようだ。(このパーティとは前衛地サマで同じ宿舎となる)同じ場所で我々のハイポーターも下山中に30mほど滑落している、が事なきを得た。
《F氏(東京)》
C3から酸素を利用して登高した。C3~C4の登高ではロープの無いところがあって、足が宙に浮いてしまった。「落ち着け」と隊長に言われ呼吸を整えて何とかくぐりぬけた。危険な箇所でフィックスに3~4名ビレーしている時(先行組みの待機のため)もあったが、松木沢ジャンダルムのクライミング経験が活きた。あんなこんな目をしたので、C4で「アタックは諦めてここでもう止めます」と言ったが隊長に無視されてしまった。
8千m付近では急に力が抜けてヘナヘナと座り込んでしまった。酸素がないよとハイポーターに指摘され急ぎビバースにボンベのエクストラに交換してもらった。酸素流量3ℓにしましたとの会話の後に体が回復してシャンと歩けるようになった。いや、酸素の威力は凄い、びっくりしました。
C4残骸テントが放置してある(登高上の左側に)30~40m先に赤いヤッケを着たミイラがあったのにはギョッとした。
注)日本人ではないかとの話があったので、帰国後資料を調べてみた。1974年日本女性マナスル登山隊報告書を入手して調べると、確かに赤いヤッケを着た当時30歳のS.Sさん(2次隊)が1974年5月5日~6日にかけて遭難、そのまま行方不明となっている。遭難場所も一致する。もしそうなら日本人として埋葬するかなんとかしないといけないな。
《H氏(長野)》
とにかく登ることしか頭になかったので、C4では風が弱くなるのを待ったが、いっこうにシェルパに出発する気配がなかった。風が弱まってきたのを受けて意を決してテントを出た。
7800m付近にてホワイトアウトになった処でシェルパはここから引き返そうというジェスチャーをしたが、ガムシャラに頂上を目指した。
山頂に立った時は嬉しかった。皆さんから寄せ書きしてもらったペナントを両手に掲げて記念写真を撮った。
下山については無線交信が途絶え途中経過の情報が伝わらなかったことに対して心配をかけた。降りることに精一杯で余裕がなかったにせよ、自分が無事に降りているから大丈夫だと思ってていても、BCへの連絡、報告の重要さについて大変認識する機会となった。
《K氏(兵庫)》
無酸素で登ったH氏の体力・馬力には感心した。登りも色々あったけど下りは激闘の12時間であった。BCからのサポート2名が迎えに来てくれて「おにぎりと味噌汁」を持参してくれたものを食べた時は、生きた心地がして本当に嬉しかった。
皆さんが灯台の道しるべのようにライトを振ってくれる灯りが見えた時は、無事に生還したんだという実感が湧いてきた。
下山のC4就寝中に睡眠酸素が無くなったことがあったり、酸素濃度の薄い高所に長時間に身体を晒したダメージが、結果として、意識と行動の緩慢さに出たのだろう。無線による隊長の的確な指示、要所要所での数々の励ましや注意喚起があったればこそ初めて登頂と無事下山ができたものと感謝している。
朝食:おかゆ(ふりかけ、焼き海苔)、お好み焼き、玉子焼き
昼食:日本(インスタント)焼きそば
夕食:チキンカツ ビール
SPO2(朝) 88 脈拍 88