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山行活動部 / 海外委員会
エヴェレスト・ゴールデン・ジュビリー・セレブレーション
(エヴェレスト初登頂50周年記念式典)出席報告
近藤和美(海外委員)
1953年5月、イギリス隊に加わったニュージーランド人、エドマンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイ・シェルパ(ダージリンに住んでいたため国籍はインド)によって世界最高峰は初めて登頂された(1924年にチベット側からマロリーらが頂きに達したのではないかという解けない謎もあるが、私も含めて同ルートから登頂したクライマーのほとんどすべてはマロリーらの登頂の可能性には否定的である)。今年はその壮挙達成からちょうど満50年になることから、ネパールではNMA(ネパール山岳協会)を中核に、政府やカトマンズ市、各観光関係業者などが加わった標記の式典組織委員会が結成され、27日から29日までの3日間を中心に多彩な行事が催されることになった。そしてこれまでのすべての同峰登頂者に案内状が送付された(日本人登頂者には日山協が窓口になった)。

労山からは過去、他団体に加わって登頂した所属会員も数人いるが、純粋な労山隊としては98年の全国連盟隊(8人登頂)と昨02年の札幌中央労山隊(3人登頂)があり、昨年まで延べ93人の日本人登頂者中、11人という数字は未だ多いとは言えないものの、存在感を誇ってもいい比重といえよう。そんな状況を考慮するとショウ・ザ・フラッグではないけれど、労山からも最低1人は参加して「JWAFここにあり」を大いにアピールする必要があるのではないかと考えた。問題は渡航費である。現地入りすれば期間中の滞在費は組織委員会が負担してくれるとはいうものの、航空運賃を自己負担までして行ける人はそうそういない。海外委員会では参加資格のある近藤が出席できるよう全国連盟に要請したが、これが認められて、近藤は5月25日のロイヤルネパール航空で現地入りした。乗り合わせた出席者は女性世界最高齢同峰登頂者の渡邊玉枝さんや日本代表団世話役的存在の神崎忠男さんである。

SARS騒ぎで本来の寄港地、上海を往復とも素通りした飛行機は通常より3時間も早くカトマンズ空港に到着。組織委員会に事前届出して登録されていた出席者にはビザ代免除の特典が与えられたので30ドルを節約できた。式典前後の宿泊は全国連盟隊定宿のトラチャン・ハウスに求める。この式典の前と後の日取りは、3週間後に改めてカトマンズ経由で向かう労山ガッシャーブルム遠征のための下準備活動をすることにしていたのでその間の滞在費は遠征隊負担とした。

坂口三郎さん翌26日は同遠征にネパールから伴うティカ・グルン君の個人装備のチェックと不足装備の購入に当てて終わった。

明けて27日、いよいよ式典の受付が始まる。正午に宿泊所であるボードナート近くの高級ホテル、ハイヤットにチェックインする。ここですでに現地入りされていた他の出席者諸氏とも顔合わせする。ちなみに顔ぶれは女性初登頂者の田部井淳子さん、八木原圀明さん、代々の世界最高齢登頂者の山本俊雄さんと石川富康さん、そして今野一也さん、萩尾雄二さん、また前日山協会長の坂口三郎さんらであった。

早速、ガーデン・レストランでの昼食にありつくが、ここで6人の労山会員と出会う。長水恵さんら札幌中央労山の3人と東京の河野千鶴子さん、岩崎照幸さん、山口の松尾和代さんらで50周年に合わせてNMAが企画した6000m峰登山キャンプに参加していた皆さんであった。

午後一番はUAAA(アジア山岳連盟)の理事会。労山は現在これの正式加盟団体ではあるが、日本の理事団体としては日山協が務めているのであえて出席しなくてもよい立場である。しかし折角来ているのでオブザーバー参加してはどうかという声もあり、近藤もそのつもりだったので出席する。SARS問題もあってか全21加盟国中、中国始め欠席国も多く、委員長国の韓国以下、ネパール、日本、パキスタン、インドの5カ国と淋しい出席状況であった。

メスナー氏冒頭、特別参加のラインホルト・メスナー氏のヒマラヤの環境保全の訴えとヒマラヤを抱えるアジア諸国への感謝などが述べられた。いまやEU議会議員も務めている氏の演説内容は堂に入ったものであった。討議はUAAA設立以来の歩みの報告と今後の展望などであったが、前者はともかく、後者は出席国が少ないこともあって深まらなかった。オブザーバー参加の私も自己紹介を兼ねて、労山がこれまで日本国内で力を注いできた自然保護を始めとした諸運動についてと、国際活動に関しては後発であるが、今後はその面でも力を尽くしていきたいなどと述べた。

2時間ほどでお開きとなったが、この会議の模様はネパールのテレビ・ニュースで報道されたそうで、後日テレビで私の顔を見たよというネパールの友人に何人も会った。

夕食はカトマンズの中心街、タメルのレストラン、ラムドゥードゥルでの会食会となり、各国クライマーとの交流に励めるはずであったが、会場の混雑し過ぎで思うにまかせなかった。

翌日は朝から車でカトマンズ盆地を取り囲む丘陵の一角、カカニの丘に運ばれる。NMAがそこに国際山岳記念公園を造るとして国から払い下げを受けた土地である。巨大テント張りの野外ステージにしつらえられた会場で「開所式」らしきものが執り行なわれ、またもメスナー氏、そして田部井さんらがスピーチする。周囲が騒がしすぎて聞き取るのは至難の業だったが、主旨は今やエヴェレストは人を多く迎え入れ過ぎている。環境を守るためにもっと制限をすべきだということだったように思う。一方、これも有名な登山家、アラン・ヒンクス氏(英)やナジール・サビール氏(パキスタン)、NMA会長のアン・ツェリン氏らは、制限すべきではない、登りたい人は誰でも登れることが大切なのだという立場であった。エヴェレストでは1シーズンに数100人のクライマーが行動する現況だが、モンブランなどは1日に1600人も登る日もあるという数字も示された。実は私自身もこの後者の意見に同意する、というか前からそう思ってそう発言もしてきた。環境問題は大切だが、登山制限に結び付けるべきではないと思う。例えばマッキンリーのウェスト・バットレス・ルートなどでも6月だけで1000人余のクライマーが行動するが、国立公園当局の厳格な指導の下、環境汚染が抑えられている例に倣うべきだろう。

一連のスピーチの後、今は禿山となっている一帯を往古の森林に復元しようという趣旨からの植林作業を参加者全員で行なう。あらかじめ掘られてある穴に番号札が付けられた石楠花や菩提樹その他の苗木を植え込む。ここでは田部井さんが一番人気でプロアマを問わずカメラマンの人気を集めていた。ちなみに私は33番の苗木を植樹したが、10年後には一帯はどうなっているだろうか。

再び市内に戻り、昼食はシャングリラ・ホテルのガーデン・レストランで用意され、その後ハイヤットに戻る。午後は国際登山者連盟なる聞きなれない団体の集会が挙行されたようだが、これには欠席させていただいた。

ヒラリー夫妻夜は、英国大使館の主催で庭園夕食会が行われた。最近体調が思わしくないと伝えられるヒラリーさんの出席が目玉で、出席資格は登頂者のみとされていたが、不謹慎ながらもう2度とお目にかかれないかもしれないよと、河野さんらを誘って大使館に向かう。幸い彼らも出席を拒まれることはなかった。併設の図書室で初登頂時の記録写真展などを見てまわった後、大使館の庭園へ。ヒラリーさんはやはり足腰が弱っているようで夫人と共にソファに座りっきりではあったが、それ以外は問題はなさそうであった。それにしても今年82歳のヒラリーさん。僚友のテンジンはすでに17年も前に亡くなってしまっているだけによくぞ50周年まで健在でいてくれたものだとの感慨を抱いた。主役がいない周年行事ではその意義もかなり違ったものになってしまったであろうから。

明けて29日、いよいよ登頂50周年の真の当日である。午前中はヤク&イェティ・ホテルでの「登山と開発」と題してのシンポジウム。ヒラリーさんがスピーチし、3度目か4度目かのメスナー氏も登壇。メスナー氏もそうだが、特にヒラリー氏はエヴェレスト登山の現況は冒険性もなくなり登山本来の姿とはかけ離れている。昔のような1シーズンに1ルート1パーティーというように登山隊数を制限すべきという持論を述べた。これに対して再びヒンクス氏も持論を展開。スピーチには立たなかったが、パキスタン唯一のエヴェレスト登頂者、ナジール・サビール氏も全く同意見で、「よき時代に生まれ、自分はすでに登ってしまったからといって後に続く登頂志願者の願望達成を妨げるようなことを言うのはどうかと思う」と私に吐露していた。

テンジン氏の息子で、難波康子さんら10数人が遭難死したあの96年にIMAX映画撮影隊の一員として登頂を果たしたジャムリン・テンジン氏も登壇したが彼が何を話したかは残念ながら聞き取れなかった(それとは直接関係ないが最近廣済堂出版からジャムリン氏の著した『エベレスト50年の挑戦』原題=父の魂との邂逅=海津正彦氏訳が出版された。単なる登山記録ではなく、シェルパ社会に生まれ欧米流教育を受けた氏のこの著作は比較文論・宗教論としてもきわめて優れているのではないかと思われ、是非一読を勧めたい)。

結局シンポジウムとはいうものの、各発言者が持論を発表するばかりで本来の討論にはまったく進まなかった。だいたい主催のNMA自体に3日間の催しをただ賑々しく進行させることだけに目が向いていて、実質をどれだけ刈り取る気があったのかは疑わしい気がする。

国際会議会館午後はナヤバネスウォール地区に立つ国際会議会館に場所を移して「エヴェレスト登頂者大集合」なる最後の催しにうつった(参加した登頂経験者は最終的に300人以上に達した模様)。ここでは国王夫妻らの臨席があるのでスーツ姿で出席のこととのお達しがあった。この時期すでに30数度と暑いカトマンズの気候を考慮してワイシャツとネクタイ程度しか用意していかなかった私は、急遽歩いて数分のところにあるトラチャンハウスに駆けつけ、主人のモハンさんの背広を借りる。背格好がほぼ同じなのでぴったり合い助かった。もっとも欧米のクライマーの多くは支給された記念Tシャツのままで出席しているものも少なくなかったが。

連日ぎっしり詰め込まれた催しに主要な招待者も疲れ気味か、登壇すべき人でも姿を現さない人も少なくなかった。律儀に付き合っている田部井さんはすっかり声が枯れてしまっていた。ネパール首相、R・チャンド氏の祝賀スピーチもあったが、この人は何と翌日、現下の政治情勢に付き合いきれないとして辞任してしまった。あの時すでに辞任の腹を固めていたのであろう。

国際会議会館何人かの要人のスピーチの後、国別に登頂者へのメダル贈呈式にうつる。世界最高齢登頂記録を樹立して下山してきたばかりの三浦雄一郎氏も駆けつけ、一緒にメダル授与を受けた。

最後は庭に出て、国王謁見の儀式となった。各国ごとにまとまって登頂者が一列に並んだ前をギャネンドラ国王が順番に歩き、1人1人に握手していく。これで一連の公式行事は終わった。

夕食は田部井さんの招待という形で日本人出席者合同の食事会が近くのエヴェレスト・ホテルのレストランで行なわれた。田部井さんには国際的な登山関係の会議というといつも日本代表のような形で任務を果たさなければならないご苦労をねぎらう。その他既知の人が多かったが、三浦さんとは初めて親しく言葉を交わし、記録達成へお祝いを述べさせていただくと共に、自分は今しばらく無酸素にこだわって8000m峰に挑んでいきたい旨をスピーチする。それにしても、一方では登山の冒険性を保つため及び環境保全のために登山者数を制限すべきという意見がある傍ら、大きなサポート体制を構築し酸素類もふんだんに使っての登山にも祝福が与えられるというのは、制限論者から見ると矛盾しているのではなかろうか。今回の50周年式典そのものが最初からそういう矛盾をはらんでいたとも言えよう。しかしこの式典全体を眺めればNMAや組織委員会はよくやったとも言えるのでないかという印象を抱いたのも事実である。

翌朝、ハイヤットをチェックアウト。その後(ガッシャーブルム登山はナジール氏が経営する代理店に手配をお願いしているので)、ちょうどよい機会とばかりにナジール氏と打ち合わせを行なう。これで遠征本番もよりスムーズに進めることができるだろう。

夜は、在ネパール日本大使の招待で大使公邸での懇親会が開かれた。ちょうどこの春の登山を終えてきたばかりの各登山隊の隊員も多数参集。私は神長善次大使や三浦、田部井、石川、山本、八木原各氏らと同じセンター・テーブルに席を指定していただき、労山のことも少なからずPRできたのではないか。

翌31日は夜遅くに出国である。日中の時間を利用して、ナジール氏が前もって運んでおいてくれるという連絡官用の支給装備購入のためタメル地区の登山用品店を歩き回る。疲れがたまって腹具合もおかしくなり、苦しい体調だったが、何とかやりきる。

深夜23時45分、息継ぐ暇もないあわただしい1週間の旅を終えて帰国の途についた。

以上